語学が好き、コトバが好き、いや違うな。。。大学でとある言語を専攻した際にはそれを使って仕事をしたいと思っていたのだ。そもそもその時点でその国にそれほど愛着があった訳ではないこと、興味がチガウ方に大きく逸れてしまったこと、一つの言語をマスターするというのはそう生易しいことではなくそう高くない部分の壁さえ越えられなかったなどの理由で仕事にすることはできなかったが。オーケストラに入ってそんな余裕もなく数年前までは語学に再び触れることを無意識に封印していたように思う。が、ある時その封印を解いたのだ。別に必要に迫られた訳ではなかった。必要に迫られたといえば、一年ベルリンでヴィオラのレッスンを受けようと決めた時はドイツ語を猛然と勉強し始めたけれど、先生は英語もOKだったし、何より音楽のことに関してはそんなに喋れなくてもなんとかなってしまうので、必要に迫られたというわけではない。まぁせっかく一年暮らすのだから触れる文化の一つとして学びたいと思ったのだけれどね。封印のワケには、新しい言語に手を付けるのに躊躇したというのもあった。英語すらまともにできないのに?と自分でブレーキをかけていたのだ。封印を解いたのは韓国への演奏旅行だったかもしれない。実は韓国語は前から気になっていて、せっかく頻繁に行く機会があるのだから(当時はね。年に何回も行った時もあった)、話せたら楽しいだろうな、勉強したいなと。でもなんだか一番長い付き合いなのにずっとほったらかしてる英語に義理を感じてwまずは英語でしょ、とマンツーマンのレッスンを受けたりし始めたらこれが楽しくてフランス語も始めちゃったり。そうなるともう開き直りで、ええい、もう全部中途半端でもいいや、やりたいこと全部やってやる!となり、韓国語も始め今に至っている。流行りの中国語も、そして本来なら多少モノになっていないといけないロシア語も気になっているけれど流石にキャパオーバーなので自粛している。

言葉は手段。「勉強」と思うとインプット中心になりせいぜい本や記事など読むこと、聞くことの手段にしかならないのだが、伝えたいことを表現するための武器になるようしていきたい。active な面を伸ばそう!と思う今日この頃。そしてやはり実際に自分以外の「人」と意志の疎通ができた時の喜び、モチベーションはここにある。

会話、対話。。音楽も同じだ。語彙は多ければ多いほどいいし、発音だって聞きやすいほうがいいに決まってる。抑揚もその音楽の生まれた場所、時代、スタイルによって聞き取りやすい、訛ってる、みたいのあるし。人の話(音、音楽)がきちんと聞けないと表面的なものに終始してしまうしね。

人の心の中はわからない。ほんとうにわからない。わかったつもりになるのは愚かで寂しいことだ。口から出たコトバは他人から見たその人のすべてとも言える。言葉は人との、自分との約束。大切なもの。

雨の日につらつらと思ったこと、でした。

今日も寒い。暖かく、よい夢を。

おやすみなさい。

tacaco

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